ゲノム編集の医療応用における倫理的課題
1)体細胞ゲノム編集
新しい治療法を開発した場合、「臨床研究(試験)」という形で患者や健康なボランティアの方に試し、その安全性や有効性を検証しなければなりません。体細胞ゲノム編集については、主にアメリカや中国にて、HIV、デュシャンヌ型筋ジストロフィー、血友病B、レーバー先天性黒内障10型(LCA10)、βサラセミア、鎌状赤血球症、トランスサイレチンアミロイドーシス等を対象とした臨床研究に行われており、今後も増えていくことが予想されます。一方で、ゲノム編集は、オフターゲット作用(狙ったゲノム部位以外の部分でもゲノム配列を変えてしまう現象)が生じることがあり、それによる細胞のがん化が懸念されています。この他、予想し得ない疾患を生じさせる可能性もあります。そのため、患者等に未知のリスクがあることを含めて十分に説明し、臨床研究に参加するか否かを慎重に判断していただけるよう、研究者は努めなければなりません。
また、将来、容姿や運動能力、知的能力をゲノム編集で改善することが技術的に可能になるかもしれません。これは社会の在り方や価値観と密接にかかわるものです。そのため、ゲノム編集技術の利用をどこまで許容するか、今から社会の中で議論し、決めて行くことが必要でしょう。
2)受精胚ゲノム編集
2018年11月、当時、南方科技大学の副教授であった賀建奎(He Jiankui)氏が、受精胚にゲノム編集を行い、双子の女児を誕生させたとの報道が衝撃をもって世界を駆け巡りました。エイズウイルス(HIV)陽性の夫のもとに生まれる子がHIVに感染しないよう、HIV陰性の妻の卵子との体外受精で得た受精胚についてゲノム編集(CCR5遺伝子の改変)を行ったというものでした。この報道はなぜ「衝撃」的だったのでしょうか。一因として、研究実施における基本的なルールを賀氏が守っていなかったというお粗末な事情があります(後に賀氏は違法な医療行為を行ったとして有罪判決を受けました)。しかし、そのような事情がなかったとしても「衝撃」は走ったでしょう。なぜなら、ヒト受精胚にゲノム編集を行い、こどもを誕生させることは「超えてはならない一線」と科学界及び国際社会において認識されていたためです。この認識は、今も変わっていません。その主な理由としては、次があげられます。
まず、「安全面」の理由です。受精胚にゲノム編集を行った場合、生まれたこどもは全身の細胞に改変されたゲノムを持つことになります。そして、生殖細胞のゲノムも改変されるため、後世代にも引き継がれます。これらの点で、体細胞ゲノム編集とは大きく異なります。そのため、オフターゲット作用による細胞のがん化やその他疾患に罹患するリスクは、体細胞ゲノム編集よりも格段に大きく、長期化します。また、受精胚を構成する細胞の中に、ゲノムの改変がなされたものと、なされていないものが混在するモザイク現象が生じることもあり、これが生まれたこどもや子孫の健康に悪影響を及ぼす可能性もあります。HIVに関しては他者への感染を防ぐ確立した方法があるにもかかわらず、あえてリスクの大きい受精胚のゲノム編集を行ったことから、上記の中国のケースでは研究者に厳しい非難が世界中から向けられたのです。もっとも、受精胚ゲノム編集の安全面の課題の克服に向けた研究は世界中で進められています。そのような中、どの程度の安全性が担保でき、どのような条件が満たされれば、受精胚のゲノム編集を行ったこどもを誕生させることが認められるのか、国際的な議論が始まっています。
二つ目としては、安全面に関連した次のような「自己決定」の観点からの理由です。体細胞ゲノム編集の場合、この技術を用いた治療を受けるか否かを患者本人が自己決定することができます。しかし、ヒト受精胚ゲノム編集で生まれたこどもやその子孫は、当然、ゲノム編集が行われる時点では誕生していないため、このようなリスクを負うにもかかわらず自己決定できません。この点でも体細胞ゲノム編集と異なります。一方、親等の決定に依拠することは、通常の小児医療でも同じことが言えるのではないか、と思われるかもしれません。しかし、通常の小児医療の場合にはすでに病気に苦しむこどもが存在している中での親等の決定ですが、ヒト受精胚ゲノム編集ではそのようなこどもが存在していない中での決定という点に大きな違いがあります。安全性の検証が不十分な段階で受精胚のゲノム編集を行い、生まれたこどもが重篤な疾患に罹患した場合、ゲノム編集を行う決定をしたことについて、親はこどもから責任を問われる可能性もあるでしょう。
三つ目の理由は、親あるいは技術開発を行う研究者は、科学技術を用いて、こどもやその子孫の「生命の設計図」とも言われるゲノムをどこまで変えてよいのか、という根源的な倫理問題について答えが出せていないことです。例えば、こどもが重篤な疾患や障害をもたないように受精胚のゲノム編集を行うこと、あるいは、アレルギー体質にならないように行うことは認められるのでしょうか?こどもの知的能力や運動能力などを高める「エンハンスメント」のために行うことはどうでしょうか?これは、未来の世代の構成や価値観に大きな影響を与える可能性を有しており、私たちがこどもや子孫にどのような社会をつないでいきたいか、ということに関係する重要な問題です。社会全体で議論をし、方向性を決めていく必要があります。