4.1 ヒト受精胚研究
ヒトの体がどのように動いており、どのような異常が病気につながるのか、その仕組みを知るためには、培養細胞やマウスなどの実験モデルが必要です。とくに精子と卵子による受精とその後の発生過程を知るには受精胚が必要となりますが、生命の始まりである受精胚を用いた研究には乗り越えるべき問題があります。まず、本来母親の体内にしか存在しないはずのヒト受精胚を、どうやって体外で研究するのかという技術的問題です。そして同時に、そのような研究は本当に許されるものなのかという倫理的問題です。
1978年、イギリスで世界初の体外受精児が誕生しました。「受精」は、長い人類史において母胎内でのみ行われてきましたが、医療用容器の中で受精させ、できた受精胚を母胎に移植してこどもを誕生させることが可能になったのです。この技術は瞬く間に世界中に広がり、日本では14人に1人のこどもが体外受精で生まれているほどに普及しています(2019年現在)。体外受精が受精胚の存在場所を母胎の外へと広げたことから、ヒト受精胚を用いた研究の実施も可能になりました。では実際にどのような研究が進むと期待されているのでしょうか。
ヒト受精胚を用いた研究には大きく分けて2つあります。一つ目は、不妊治療を目的として、卵子を採取したり、卵子と精子を体外受精したり、受精卵を子宮内へ移植したりする“生殖補助医療”と呼ばれる技術の開発につながる研究です。流産の原因を知るための研究やより効果的な避妊方法を開発したり、着床前の胚における遺伝子・染色体異常を検出する方法を開発したりする研究もこれにつながってきます。二つ目は、受精後早期に起こるヒトの生命現象をより深く理解する発生生物学とその時期に生じる病気の原因を解明する病態医学への研究です。
ヒト受精胚の利用は発生学の急速な発展をもたらし、生殖補助医療の向上にも貢献しています。しかし同時に、「人」として誕生する可能性を秘めたヒト受精胚を研究に用いること、また、研究に使うためにヒト受精胚を作成することは倫理的に許されるのか、そして、そもそもヒト受精胚はどのように扱うべき存在なのか、という問題を浮上させることにもなりました。特にキリスト教文化圏の国々ではこれら問題に対する社会的関心は高く、1990年代から2000年代にかけてヒト受精胚研究のルールが法律等で定められました。その中で、多くの国で採用されているのが、原始線条という構造が現れるまで、あるいは現れない場合には受精後14日までの期間に限ってヒト受精胚の研究利用を認めるルールです。原始線条の出現以降は、受精胚の中の細胞は特定の器官を形成する細胞へと分化します。そのため、その時点をもって「人」としての成長が始まったとみなし、それ以降の研究利用を禁じたのです。しかしながら実際には、ヒト受精胚を体外で培養し続けるのは難しく、この“14日ルール”が作られたときには1週間を超えて培養することははるか遠い目標であったために、倫理的課題はそれほど大きな問題となりませんでした。ところが2016年、ヒト受精胚を体外で受精後13日目まで育てる方法が開発され、技術的問題がなくなってしまいました。さらに2021年には、ヒトiPS細胞などから胚によく似た立体的構造体(オルガノイド)の作成に成功したという報告が同時に複数の研究室からなされました。このことは精子と卵子による受精というステップを経ずとも、例えば皮膚の細胞から胚に近いものを作ることができるということを意味しており、そもそも受精後14日という日数が意味を持たなくなっていることを意味します。
このような動向をうけ、幹細胞研究領域において強い影響力をもつ国際幹細胞学会(ISSCR)は2021年5月末にガイドラインを改訂し、ヒト胚研究における「14日ルール」を禁止項目から除外しました。今後、国際社会においてヒト胚研究をどのように規制していくのがよいのか、専門家の間で緩和に向けた議論がなされており、今後の動向が注目されます。
日本では、ヒト受精胚を「人の生命の萌芽」と位置づけ、皮膚等の細胞よりも尊重されるべき存在としています(総合科学技術会議「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」(2004年))。ヒト受精胚研究全般に関する法律等はありませんが、特定の研究領域については政府の指針が策定され、厳格なルールの下で実施されています。